「防人」  先任の係長が転勤して数日後、朝礼で、部長が一人の女性を紹介した。  「このたび九州支社から転勤してきた、係長の宗像君だ」  「宗像です。よろしくお願いします」 と、顔を上げた宗像幸子は、藤次郎の顔をみるなり、  「あーーーっ、あなたは…」 と言って、無意識に藤次郎を指を差していた。  そこにいた一同、何が何だか解らず、呆然としていた。  藤次郎も、最初しばらく彼女のとった行動が理解できなかったが、そのうち気がつき、  「さ、幸子さん…」 と、藤次郎も声が上ずっていた。  「萩原さん、どうかしました?」 と言って、今年入社したばかりの後輩の上杉景子は藤次郎の作業着の袖を引っ張っていた が、藤次郎にはそれが判らなかった… *  …それは、藤次郎が九州は福岡県の大学に合格し、友人たちに「防人」とからかわれな がらも九州に赴き、大学から離れた下宿屋に引越ししてから半年。ようやくここの生活に も水にも食べ物にも慣れ、また、ホームシックに駆られることもなくなった。  今日も退屈な講義を終えて、学友たちと駅で別れて下宿の近くにある本屋に立ち寄る。 これが藤次郎の日課になっていた。  「ここは、本州と違って、月刊誌は一週間遅れて発売されるからいやになる」 と、独り言を言いながら、月刊の雑誌を手に取りレジに向かった。  「いらっしゃい」 と、藤次郎と同年代と思われる女性がレジに座っていた。いつもは、店の親爺がレジの横 にあるテレビを見ながら対応しているのだが…  その女性は藤次郎から雑誌を受け取り、藤次郎の顔をまじまじと見るなり一言。  「あら、あなたね…東京から来た人って」 と、言った。  「はい…?」  藤次郎が怪訝そうな顔をしていると、  「あなた、この辺では有名よ。城山荘の住人に”坂東からの防人がいる”って」 と、言って彼女はクスクスと笑った。藤次郎は、自分がそんなことで有名になっていると は知らなかったので、驚いた。  「あなた、下宿の新歓コンパで、『坂東から防人に来ました』って言ったそうじゃない」 と、彼女は笑いながら続けて言った。藤次郎は「しまった!」と思った。いくら酒が入っ ていても、これは余計な一言だった。そして、そんな話が知れ渡るほど、この辺は狭いの だなぁ…とも思った。  あまりにも、藤次郎が何も言わなかったので、彼女は笑うのをやめて、  「あら、笑ってごめんなさいね。悪気はなかったのよ。わたし、幸子。宗像幸子。よろ しくね」  おつりと、雑誌の入った袋を渡しながら、彼女は言った…それが、藤次郎と幸子の出会 いであった。  「藤次郎…萩原藤次郎です」  藤次郎は、おどおどして自己紹介をした。その藤次郎の態度に幸子は余計興味を持った らしく、  「ねぇ、お店暇だから、良かったらそこに腰掛けて、あなたとお話したいな。東京の話 を聞かせてよ」  藤次郎は、言われるままにレジの横の椅子に座り、暫く二人は雑談をした。  聞くと、幸子は博多にある国立大学の工学部の学生で、専攻も藤次郎の電子工学に対し て通信工学を専攻していた。彼女は、藤次郎より二歳年上で、ここには、アルバイトで勤 めているのだそうだ。  その後、幸子の下宿がこの近所で、また彼女は良い工学書をたくさん持っていたので、 藤次郎はよく本を借りたり、勉強を教えてもらいに幸子の下宿にお邪魔した。  そんなある日、藤次郎がいつものように幸子の部屋に遊びに行って、二人でコーヒーを 飲みながら雑談していると、ふと幸子が  「ねぇ、藤次郎君、彼女とか居るの?」 と、唐突に聞いた。その目には、興味と期待の色が満ちていた。その幸子の言葉に藤次郎 は、  「うーーん、居ると言うか、居たと言うか…」 と、言葉を濁した。  「なに、その曖昧な返事は?」 と、つき放つような感じで幸子が言うと、  「いや…その…、大学入る前に音信不通になって…」 と、藤次郎はしどろもどろになって答えた。  これは、藤次郎の筆不精のせいだ。玉珠からの最後の手紙を引越し前に受け取ったもの の、引越しのドサクサでなくしてしまった。そのため、玉珠の東京での新住所が判らず、 返事を出さないままでいたのである。また、玉珠の居場所を玉珠の両親に尋ねようなどと いう考えをまったく持っていなかったのである。  幸子は、そんな藤次郎に呆れて  「あらあら…きっと彼女心配しているわよ。もっとも、この現場を見たらただじゃすま ないけど…それとも、彼女のことはあきらめたの?」 と、幸子は悪戯っぽく半分脅迫めいたことを言った。  「・・・」  藤次郎は、言葉が出なかった。幸子は、藤次郎の反応から藤次郎の思いを察して、フッ とため息をつくと、  「…まだあきらめていないようね。だったら東京に戻ったら、すぐに探しなさい。それ までは、わたしが、相手して・あ・げ・る」 と、妖しい目つきで、妖しい言葉を言いながら、幸子は藤次郎の額を指でつついた。  …そんなきっかけで、その後、二人はいつしか男女の仲になっていった…  でも、その付き合いも一年と続かなかった。  幸子が四回生になり、卒業研究が忙しくなると、幸子の帰宅時間は遅くなり、幸子が藤 次郎にかまっていられなくなったので、藤次郎が幸子の部屋に訪れる回数も極端に少なく なった。  そして、幸子が大阪の企業に就職が決まり、九州を離れると、これもまた、藤次郎の筆 不精が災いして、幸子とも音信普通になってしまった。  ただ、幸子からの最後の手紙には、  「東京に帰ったら、彼女を探しなさい」 と言う一言が添えられており、大学を無事卒業して東京に帰った藤次郎は、心当たりを探 すが、東京に居る玉珠の友人も今までの藤次郎の所業に匙を投げてて、藤次郎に玉珠の居 場所を教えなかった…あえて藤次郎もそれ以上は追求しなかった。そこが朴念仁といわれ る藤次郎の悪いところである。 *  「まっ、まぁこれからよろしくお願いします」 と、我に返った幸子は赤面して頭を下げた。  「宗像君は、第三グループの係長の後任として就いてもらう」  第三グループは、藤次郎や景子の居るグループである。景子は、先任の係長の後には藤 次郎が就くものと思っていたらしく、残念がった。各自席に戻ると、早速幸子はグループ 員を集めて、各自の自己紹介や現在の状況の報告を受けた。  この日は、景子がやけにピリピリしているを藤次郎でも感じた。  実は景子は藤次郎と幸子の関係を知りたがっていたが、休み時間も藤次郎と幸子は常に 一緒に居たのにも関わらず、仕事以外の会話しかしなかったで、話を切り出せないでやき もきしていた。  退社時間の放送が流れる。幸子は机の上を片付けながら、  「藤次郎君、今夜空いてる?」 と、斜め向かいに座っている藤次郎に対し、少し妖しい笑みを浮かべて言った。  「だめですよ、萩原さんには玉珠さんという恋人がいますから」 と、言って藤次郎の隣に座っている景子は、まだ藤次郎が何も言わないうちに、藤次郎の 腕を取って自分のほうに引き寄せた。それは、まるで子供が自分の物を他人に渡さないと いう行為にそっくりだった。幸子はこの様子を見て「あらあら」という表情をしながら、 景子の言った”玉珠”というキーワードを記憶の中から探っていた。  「玉珠…さん、ああっ、あの音信不通になってしまったという、幼馴染の娘ね。あれか ら、また逢えたんだ」 と、言って幸子は感嘆とも残念ともとれる小さなため息を漏らすと、  「じゃあ、今夜予定あるんだ」 と、少し首を傾げて言うと、  「でも…今夜は付き合って欲しいな」 と、続けて言った。藤次郎はその間、どう答えようか迷って言葉が出なかった。ちょうど、 藤次郎の頭の中では、玉珠と幸子が藤次郎の両腕を引っ張り合いしていて、首に景子がぶ ら下がっている様子が浮かんだ。  「どうなの?」 と、藤次郎が黙ったままなので、幸子は重ねて聞いた。  「…ええ、いいですよ」  藤次郎は心を決めた。  「萩原さん…」  まだ藤次郎の腕にしがみついてた景子は哀願するように藤次郎を見上げた。そんな景子 のしぐさから景子の心情を察した幸子は、  「そうだ…上杉さんもいらっしゃい。このままだと、あなた欲求不満でしょう?」 と、言って微笑んだ。  「えっ?いいんですか?」  景子の顔が明るくなった。  「あっ、ついでに毛利さんも佐竹君もいらっしゃい。今日は、私の歓迎会ね。当然、あ なたたちの奢りで…」 と、自分のグループの他の人にも声をかけた。途端に、景子の顔が暗くなった。他のグルー プ員も『奢り』という言葉を聞いて、暗くなった。  「そうと決まれば、行きましょう!」 と、幸子は嬉々として言った。  会社の近所の居酒屋。幸子は藤次郎との関係の一部を省略して話をして盛り上がった。 その間、藤次郎は幸子が何を言うのかとビクビクしていた。それでも、  「でも、幸子さん…いや宗像係長…」 と、藤次郎がおどおどして言うと、  「ここでは、”幸子”でいいわよ。なにをいまさらかしこまっているの?」  少し酔った幸子は口をとんがらして言った。  「じゃ、幸子さん」  「なぁに?」  幸子は、母親のように優しく返事をした。幸子は5年前と変わらず、藤次郎を子ども扱 いしていた。  「なんで、この会社に来たの?たしか、大阪の企業に就職したんだよね」  幸子は「なぁんだ、そのことか」と言う顔をすると、  「…あら、知らなかったの?あの会社、この会社と同じ系列で、わたし、いったん家を 出たけれど、やっぱり九州の方がいいと思って、この会社の九州支社に出向したのね。そ うしたら、そのままこの会社の社員として採用されて、今度東京に来たわけ…この会社に は藤次郎君が居ることを知って、今度の転勤に応じたんだけど…」 と、幸子はあっけらかんと答えた。  「どうして、萩原さんが居るのを知ったのですか?」 と、酔った景子が横から口を挟む。  「あら、彼って向こうでも有名よ。協力会社の女性と会った初日からデキたとか、その とき彼の設計した装置はそれ以前のデキの悪い装置とうって変わって頑丈で壊れないとか …もっとも、それは、組み込んだソフトが優秀という話だけど…ああ、その女性が玉珠さ んね…それで、ようやく納得したわ」 と、幸子は一人合点がいって笑いながら言った。  「あーー、いい事聞いちゃった!玉珠さんに教えちゃおう!!」  「う、上杉君…」  酔いが回って景子ははしゃぎながら言った。藤次郎はただオロオロするばかりだった。  「でも…まさか藤次郎君の居るグループに配属されるとは思わなかったわ…それも、上 司として…本当は、こっちきて落ち着いてから、藤次郎君と会いたかったけど、いきなり 再会しちゃったから、驚いちゃって」  幸子はうつむき加減にため息をついた。それは、朝自分のとった態度の反省も含めてい るようだった。  「それで、あんな行動をとったのですか?」  景子に負けじと、毛利までこの会話に入ってきた。  「そうよ、驚いたでしょう」 と、言って幸子は微笑んだ。  翌日、藤次郎は幸子に会議室に呼び出された。景子の目を盗んでバラバラに会議室に入 った二人は、窓際で向かい合った。  「いい、藤次郎君。九州での二人の関係はただの友達よ」  「はい」  「あなたには、玉珠さんという彼女が居て、私には…」 と、言って景子は結婚指輪を藤次郎に見せた。  「…幸子さん。結婚していたの?」  「うん。だんながこっちに転勤したので、後を追って来たの。昨日の席ではああいった けど、こっちに来た理由は実はこれなの…だから、九州でのことは二人の秘密よ」 と、真剣なまなざしで幸子は言った。  「はい」  藤次郎も誓った。  …そして、後日。藤次郎は玉珠に景子から聞いた一部誇張された幸子の事で問い詰めら れ、首を絞められた。 藤次郎正秀